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『俊寛』『一夕噺』だよ
三年経ちゃあサンジュになりやす
そう、20年前この十一月に生まれたのが『赤ひげ』でした。
この歳、前進座劇場五周年。青少年劇場では『セロ弾きのゴーシュ』や『やんぼうにんぼうとんぼう』が初演。
三月には『たいこどんどん』初演。前進座とは縁のなかっただろう若い人たちが前進座劇場に押し寄せました。
五月国立では『毛抜』『権三と助十』と共に『南総里見八犬伝』屋根上の立回り、20分の作品ながら若手メンバーだけで一本を上演。
これに向けて、四月に前進座劇場で若手試演会を開催。公演の合間を縫って稽古を重ねました。
『屋根上の立回り』は怪我人続出、苦い思い出でもありますが、兎も角やらなきゃと結果を恐れず限界に挑戦した記念碑でもあります。
翌月には梅之助らによる『俊寛』が幕を開けています。
その『俊寛』と『出雲の阿国』が楽を迎えて二週間足らずで青山劇場公演『赤ひげ』の初演をあけて大好評を頂いたんですから、大変な集中力です。
あたしは入ったばかりで良くわかりませんでしたが、こう並べてみるととんでもない活動をやってたわけです。

《浅草公会堂の誕生日は前進座劇場と同じ10月27日。五歳だけお兄さんです》
『俊寛』は流罪から、『一夕噺』は夫婦別れから、三年目のドラマ。
「三年たちゃあ三つになりやす」とは、来春京都で上演する『三人吉三』の台詞。
前進座は三年と一寸たちゃあ傘寿になりやす。
本卦に返って再び成人式。新たな実りの刻です。
さて、『俊寛』『一夕噺』も本日千穐楽。
次の芝居では皆々少しでも大きくなった姿でお目に掛かりたいと
みなみな精進いたして参ります。
有難うございました。

《舟子役の又野君が舞台袖で、諸士の三里あて(諸士が膝につけている白い布)をチェック。持ち場持ち場で協力し合って芝居が出来上がります》
文責★松涛喜八郎
『俊寛』『一夕噺』だよ
一歩、そして一歩

お蔭様で前進座劇場公演の千穐楽を迎えました。
前進座劇場は満25年を越えて、26年目の第一歩を踏み出したことになります。
ここで生まれた新作は約60本。再演のものも含めて、ここで舞台稽古をして全国に飛出していった舞台は数え切れません。

全国の(海外からも)皆さまからお寄せ頂いた御浄財のお助けも頂いて、舞台設備のメンテナンス、分煙、バリアフリーの整備、身障者トイレの改善、
などなど手入れをさせて頂きました。30年、40年と、末永くいいお芝居でお迎え出来る様に。

≪今出来ることを、今出来る人が。楽屋自主メンテナンス中≫

公演中の一日、若手が日々稽古した“日課”を終演後の舞台で発表いたしました。
ここは、私達のホーム・グラウンドであり、学び舎。
劇場と共に、これからの劇団員も、半歩でも一歩でも前進を続けて行きたいと決意を新たに致しました。
吉祥寺でお目に掛かれるのは、2008年一月の『あなまどい』です。「よいお歳を、来年もよろしくお願いいたします」。

でも、『人情一夕噺』『俊寛』は、まだ五日六日の浅草公会堂が残っていますし、『銃口』『赤ひげ』『龍の子太郎』と今年の前進座のお楽しみはまだまだございます。
松涛喜八郎 記
『俊寛』『一夕噺』だよ
四半世紀
下りの中央線が吉祥寺駅に近づくと左の車窓に見えてくるのが、前進座劇場の看板。
南口から末広通り商店街を十分ほど、25周年を記念して新しく皆様から贈られた幟はためく前進座劇場が現れます。

前進座がこの地に居を構えたのは、丁度70年前。
木造平屋の吉祥寺駅まで一望の下だった当時は、畑と林に囲まれ人家も稀だったといいます。
老朽化した旧:前進座演劇映画研究所を建て直して、前進座劇場が開場したのが1982年。

本来は劇場を建てることが出来ない住宅地となった吉祥寺南町に建設が許されたのは、ご賛同下さった各界の方々そして前進座をわが物のように慈しんでくださる近隣の方々のお力によるものでした。
当時、前進座劇場開場を特集したNHKの番組が旧建造物とのお別れの会から杮落としにいたる模様を記録しています。ご近所の方々からの暖かいお言葉が身に沁みます。

10月27日に杮落し。
青少年ミュージカル、歴史劇、十八番もの、世話物、松羽目舞踊、口上のプログラムによる開場記念公演の幕を開けたのは二日後の29日でした。

“劇団創立半世紀からさらに伸び続ける穂”をデザインした、その名も“未来”という緞帳を揚げた劇場は、あさって満25歳。
その日から26歳への歩みが始まります。皆様とご一緒に…。
☆松涛喜八郎 記★
下りの中央線が吉祥寺駅に近づくと左の車窓に見えてくるのが、前進座劇場の看板。
南口から末広通り商店街を十分ほど、25周年を記念して新しく皆様から贈られた幟はためく前進座劇場が現れます。

前進座がこの地に居を構えたのは、丁度70年前。
木造平屋の吉祥寺駅まで一望の下だった当時は、畑と林に囲まれ人家も稀だったといいます。
老朽化した旧:前進座演劇映画研究所を建て直して、前進座劇場が開場したのが1982年。

本来は劇場を建てることが出来ない住宅地となった吉祥寺南町に建設が許されたのは、ご賛同下さった各界の方々そして前進座をわが物のように慈しんでくださる近隣の方々のお力によるものでした。
当時、前進座劇場開場を特集したNHKの番組が旧建造物とのお別れの会から杮落としにいたる模様を記録しています。ご近所の方々からの暖かいお言葉が身に沁みます。

10月27日に杮落し。
青少年ミュージカル、歴史劇、十八番もの、世話物、松羽目舞踊、口上のプログラムによる開場記念公演の幕を開けたのは二日後の29日でした。

“劇団創立半世紀からさらに伸び続ける穂”をデザインした、その名も“未来”という緞帳を揚げた劇場は、あさって満25歳。
その日から26歳への歩みが始まります。皆様とご一緒に…。
☆松涛喜八郎 記★
『俊寛』『一夕噺』だより
『俊寛』『一夕噺』だよ
鰻トト
『人情一夕噺』の稽古場に居ると、鰻がコワくなります(イヤつまり食いたくなるってェこってすが)。
『入谷―』(直侍)のハネたあと蕎麦屋が賑わったと聞きますが、芝居の中で美味そうに食べているものを無性に食べたくなるテェのは間々あること。
『髪結新三』の稽古中は、ついついスーパーでカツオを買って仕舞う。舞台に出てる方が影響されてどうするって話ですけどね。
『一夕噺』で三年振りに家族が再会するのが鰻屋さん。一粒種の猪之助の大好物ということになっている。「お前の好きな、ウナトトだよ」。

「猪之坊は、鰻が食べたくてしかたがないんだよ…。好きな食べ物は何?」
稽古中に演出家が聞くと、
「ハンバーグ!」
……ごもっとも。

貴方もきっと、前進座劇場の帰り道、末広通り商店街の鰻屋さんでウナトトが食べたくなりますよ。
涼風が立ちはじめました。心もお腹もあったかくなってお帰り下さい。
松涛喜八郎―記
『人情一夕噺』の稽古場に居ると、鰻がコワくなります(イヤつまり食いたくなるってェこってすが)。
『入谷―』(直侍)のハネたあと蕎麦屋が賑わったと聞きますが、芝居の中で美味そうに食べているものを無性に食べたくなるテェのは間々あること。
『髪結新三』の稽古中は、ついついスーパーでカツオを買って仕舞う。舞台に出てる方が影響されてどうするって話ですけどね。
『一夕噺』で三年振りに家族が再会するのが鰻屋さん。一粒種の猪之助の大好物ということになっている。「お前の好きな、ウナトトだよ」。

「猪之坊は、鰻が食べたくてしかたがないんだよ…。好きな食べ物は何?」
稽古中に演出家が聞くと、
「ハンバーグ!」
……ごもっとも。

貴方もきっと、前進座劇場の帰り道、末広通り商店街の鰻屋さんでウナトトが食べたくなりますよ。
涼風が立ちはじめました。心もお腹もあったかくなってお帰り下さい。
松涛喜八郎―記
『俊寛』『一夕噺』だよ
微笑む俊寛
終わらないのかとさえ思われた猛暑も月が替わるとともに秋風が立ち、稽古場への往復は、肺腑の中まで黄金色に染まりそうな金木犀の咲く道を。
初日までカウントダウンに入り、稽古場は急ピッチで進行中です。
『俊寛』は、1960年の第一次訪中公演に、『勧進帳』『佐倉義民伝』『鳴神』とともに選ばれた前進座歌舞伎の典型。伝統をどう学び考え、いかに現代に生きるものにし、次の世代にどう受継ぐか、その試行錯誤の歴史とぴったり重なっています。

俊寛20年目を勤める梅之助は、俊寛の前に、舟子、諸士から、成経、丹左衛門、瀬尾と演じて、「やってないのは千鳥と康頼だけ」。再演ごとに工夫が積み重なってきた『俊寛』のこと、こうやったこともある、このやり方もあるが、今回どうすべきか、という討論から稽古は始まりました。
『平家女護嶋』の二段目一幕がすなわち『俊寛』。これだけではわかりにくい俊寛と妻・東屋(あずまや)のこと、清盛と俊寛とのこと、瀬尾と丹左衛門の関係などを、初段の台詞から拾って座の劇作演出家・平田兼三が補綴(ほてい)して出発したのが、前進座『俊寛』。
初期の上演の中で、「一人取り残される幕切れが悲しくやりきれない」と多くのお客様方からのご意見があり、源氏の旗揚げに至る『女護嶋』全五段をひっくり返して読むうちに、悲しみと同時に、時代の変化への確信と千鳥たちを都へ帰す喜びがあると思えて来、泣いていく中から笑ってゆくようにした。それがお客様に喜ばれ、志賀直哉先生にも褒められた、と翫右衛門の手記にはあります。
51年前の旧・俳優座劇場公演では、搬入口から岩が入りきらなかったとか。「昔の歌舞伎はこう(いう空間)じゃないか」「こういうところでやるのも非常に大きな勉強になるんじゃないか」と思い「少し写実的な形で」演じたことが、その年のテアトロン賞受賞に繋がりました。
国立大劇場、京都南座、と大劇場での上演が続いた『俊寛』20年ぶりの“中劇場”。

真実感を求めつつ皆みな 汗を流しています。
松涛喜八郎☆記
終わらないのかとさえ思われた猛暑も月が替わるとともに秋風が立ち、稽古場への往復は、肺腑の中まで黄金色に染まりそうな金木犀の咲く道を。
初日までカウントダウンに入り、稽古場は急ピッチで進行中です。
『俊寛』は、1960年の第一次訪中公演に、『勧進帳』『佐倉義民伝』『鳴神』とともに選ばれた前進座歌舞伎の典型。伝統をどう学び考え、いかに現代に生きるものにし、次の世代にどう受継ぐか、その試行錯誤の歴史とぴったり重なっています。

俊寛20年目を勤める梅之助は、俊寛の前に、舟子、諸士から、成経、丹左衛門、瀬尾と演じて、「やってないのは千鳥と康頼だけ」。再演ごとに工夫が積み重なってきた『俊寛』のこと、こうやったこともある、このやり方もあるが、今回どうすべきか、という討論から稽古は始まりました。
『平家女護嶋』の二段目一幕がすなわち『俊寛』。これだけではわかりにくい俊寛と妻・東屋(あずまや)のこと、清盛と俊寛とのこと、瀬尾と丹左衛門の関係などを、初段の台詞から拾って座の劇作演出家・平田兼三が補綴(ほてい)して出発したのが、前進座『俊寛』。
初期の上演の中で、「一人取り残される幕切れが悲しくやりきれない」と多くのお客様方からのご意見があり、源氏の旗揚げに至る『女護嶋』全五段をひっくり返して読むうちに、悲しみと同時に、時代の変化への確信と千鳥たちを都へ帰す喜びがあると思えて来、泣いていく中から笑ってゆくようにした。それがお客様に喜ばれ、志賀直哉先生にも褒められた、と翫右衛門の手記にはあります。
51年前の旧・俳優座劇場公演では、搬入口から岩が入りきらなかったとか。「昔の歌舞伎はこう(いう空間)じゃないか」「こういうところでやるのも非常に大きな勉強になるんじゃないか」と思い「少し写実的な形で」演じたことが、その年のテアトロン賞受賞に繋がりました。
国立大劇場、京都南座、と大劇場での上演が続いた『俊寛』20年ぶりの“中劇場”。

真実感を求めつつ皆みな 汗を流しています。
松涛喜八郎☆記
『俊寛』『一夕噺』だより
俊寛山荘跡を訪ねて…
だいぶ古い話ですが、2009年の東京公演を控え、7月末に京都南座での『法然と親鸞』公演に下見に行ってまいりました。
そして私のもう一つの目的…、それは、10月前進座劇場公演にむけて『俊寛』ゆかりの地を訪ねることでした。
あまり時間も無い中、“俊寛山荘跡”を目的地に決め、京都駅構内の観光案内所へ。ところが、案内所のおじさんいわく「山荘跡そのものは山の中で、一人では非常に危険。その手前までだって、男のボク一人で通るのも怖いくらい」とのこと。予想はしていましたが、どうやら本当の入り口までとなりそうです。
駅前からバスで東天王町まで行き、そこから“鹿ケ谷通り”をしばらく行ってから路地に入り、“哲学の道”を進みます。涼しげな水辺に、ちょっと一息。

しばらく行って右に折れると、霊鑑寺。その横に「此奥俊寛山荘地」の碑が…。目的地、“山荘跡”入り口到着です(もう!?)。そしてこの辺りは現在も「鹿ケ谷」の地名が残っているのです。

霊鑑寺の脇の坂道を登っていくと“山荘跡”がある…。観光案内所では「じゃあ入り口までにしておきます」と言ってきましたが、まだ昼間だし明るいし普通の住宅地だし、少し登ってもみても大丈夫だよね、と勝手にうなずいて進んでみました。
坂道がそれほどきつくないと思ったのは、登り始めだけ。すぐにとんでもない角度の坂になり、しかも、「もう少し、もう少し」と進むうちにどんどん高くなっていきます。振り返ると、眼下には京の街並みが…。そして先にはうっそうとした山が待ち構えています。

舗装道路が終わり、いよいよここから先は山道、というところまで突き当たりました。見ると「女性のひとり歩きはやめましょう」の看板が…。さすがにここから先へは行けません。いずれまた、一人でない時に、実際の“山荘跡”まで行ってみよう。

それにしても、現在はここまで舗装されているとはいえ、すでに山腹。俊寛たちが談合した当時は、もっとずっと山深く、夜は明かりも無い真っ暗闇だったはず。そんな山道を、平家打倒の談合に向かう面々の心の内はいかばかりだったか…、もしかしたら彼らにとって、当時の政情のほうがよほどの暗闇だったのか…。
そんな当時に想いを馳せながら、坂道を下り始めました。
←写真で見るとそれほどではありませんが、実際はすごい急勾配だったんですよ!
霊鑑寺脇まで戻ったら、残った時間で、その後観る『法然と親鸞』にゆかりの“安楽寺”と“法然院”へ(霊鑑寺のすぐ近くです)。

“安楽寺”は普段は非公開ですので門の外から、“法然院”は中を一回り。日曜日だったため庵のひとつで、近所の子ども達を集めて遊びの会が開かれており、ビックリ!!こんな風に子ども達に開かれた寺院、私は初めてみました。なんだか心あたたまる想いで、南座に向かったのでした。
●東京営業所・K:記●
だいぶ古い話ですが、2009年の東京公演を控え、7月末に京都南座での『法然と親鸞』公演に下見に行ってまいりました。
そして私のもう一つの目的…、それは、10月前進座劇場公演にむけて『俊寛』ゆかりの地を訪ねることでした。
あまり時間も無い中、“俊寛山荘跡”を目的地に決め、京都駅構内の観光案内所へ。ところが、案内所のおじさんいわく「山荘跡そのものは山の中で、一人では非常に危険。その手前までだって、男のボク一人で通るのも怖いくらい」とのこと。予想はしていましたが、どうやら本当の入り口までとなりそうです。
駅前からバスで東天王町まで行き、そこから“鹿ケ谷通り”をしばらく行ってから路地に入り、“哲学の道”を進みます。涼しげな水辺に、ちょっと一息。

しばらく行って右に折れると、霊鑑寺。その横に「此奥俊寛山荘地」の碑が…。目的地、“山荘跡”入り口到着です(もう!?)。そしてこの辺りは現在も「鹿ケ谷」の地名が残っているのです。

霊鑑寺の脇の坂道を登っていくと“山荘跡”がある…。観光案内所では「じゃあ入り口までにしておきます」と言ってきましたが、まだ昼間だし明るいし普通の住宅地だし、少し登ってもみても大丈夫だよね、と勝手にうなずいて進んでみました。
坂道がそれほどきつくないと思ったのは、登り始めだけ。すぐにとんでもない角度の坂になり、しかも、「もう少し、もう少し」と進むうちにどんどん高くなっていきます。振り返ると、眼下には京の街並みが…。そして先にはうっそうとした山が待ち構えています。

舗装道路が終わり、いよいよここから先は山道、というところまで突き当たりました。見ると「女性のひとり歩きはやめましょう」の看板が…。さすがにここから先へは行けません。いずれまた、一人でない時に、実際の“山荘跡”まで行ってみよう。

それにしても、現在はここまで舗装されているとはいえ、すでに山腹。俊寛たちが談合した当時は、もっとずっと山深く、夜は明かりも無い真っ暗闇だったはず。そんな山道を、平家打倒の談合に向かう面々の心の内はいかばかりだったか…、もしかしたら彼らにとって、当時の政情のほうがよほどの暗闇だったのか…。
そんな当時に想いを馳せながら、坂道を下り始めました。
←写真で見るとそれほどではありませんが、実際はすごい急勾配だったんですよ!霊鑑寺脇まで戻ったら、残った時間で、その後観る『法然と親鸞』にゆかりの“安楽寺”と“法然院”へ(霊鑑寺のすぐ近くです)。

“安楽寺”は普段は非公開ですので門の外から、“法然院”は中を一回り。日曜日だったため庵のひとつで、近所の子ども達を集めて遊びの会が開かれており、ビックリ!!こんな風に子ども達に開かれた寺院、私は初めてみました。なんだか心あたたまる想いで、南座に向かったのでした。
●東京営業所・K:記●
- カテゴリ : 俊寛/人情一夕噺
- 2007-10-12
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『俊寛』『一夕噺』だよ
もう一羽のチドリ
窓を開ければ港が見えるのが、伊東観光会館の楽屋。下田も一寸歩けばカモメの声。
まぶしい陽光の中で『お登勢』は千秋楽を迎えました。

伊東に伺うといつも楽しみにしているのが、会館そばの干物屋の二階にある食堂。今回も前日にHPで営業時間を再確認して伺ったのですが、この日に限り一時間早く閉まってしまっていました。烏賊の丸焼きはオアズケ。我々もHPの広報はきちんとせねば。下田では魚の美味しいお店に遭遇。捨てる神あれば拾う神。これで心置きなく伊豆から帰れます。
磯辺に棲む千鳥は、「淡路島 通う千鳥―」と歌われる如く、『お登勢』ゆかりの淡路市・洲本市の市の鳥。『俊寛』にも海女の千鳥だけでなく、天かけるチドリの声が登場します。このチドリ笛を担当するのは、『お登勢』の旅についている趙女史。
この旅では小道具管理が大事な仕事。大阪文楽劇場の『天平の甍』では、表についていて、客席から現れる鑑真和上一行に感動したという彼女ですが、『お登勢』客席から登場する白足袋の若侍達のアシスタントも仕事の一つです。
ロビーの床が固くてカツカツ音がするときにはカゴに下駄を入れて運んでくれます。

この写真のように…って、左に写ってる寺田昌樹君はこの場面に関係ないんですが。
「『俊寛』上演になると、俳優ばかりではなく演出部が非常な盛り上がりを一人ひとりが見せてくれる」
前進座『俊寛』の成り立ちを描く『歌舞伎の演技』はそう語っています。
波の音に俊寛が目覚める前進座版の幕開けでは、大太鼓の波音に波カゴと呼ばれるものを使います。扱う演出部員に、その強さタイミングを先輩部員が伝えます。
もう一羽の千鳥たちにもご期待ください。
…さてさて、千秋楽の夜、みんな千鳥足になる前に宿に帰って来たかなあ。
楽の日付が変わるころ 松涛喜八郎これを記す
窓を開ければ港が見えるのが、伊東観光会館の楽屋。下田も一寸歩けばカモメの声。
まぶしい陽光の中で『お登勢』は千秋楽を迎えました。

伊東に伺うといつも楽しみにしているのが、会館そばの干物屋の二階にある食堂。今回も前日にHPで営業時間を再確認して伺ったのですが、この日に限り一時間早く閉まってしまっていました。烏賊の丸焼きはオアズケ。我々もHPの広報はきちんとせねば。下田では魚の美味しいお店に遭遇。捨てる神あれば拾う神。これで心置きなく伊豆から帰れます。
磯辺に棲む千鳥は、「淡路島 通う千鳥―」と歌われる如く、『お登勢』ゆかりの淡路市・洲本市の市の鳥。『俊寛』にも海女の千鳥だけでなく、天かけるチドリの声が登場します。このチドリ笛を担当するのは、『お登勢』の旅についている趙女史。
この旅では小道具管理が大事な仕事。大阪文楽劇場の『天平の甍』では、表についていて、客席から現れる鑑真和上一行に感動したという彼女ですが、『お登勢』客席から登場する白足袋の若侍達のアシスタントも仕事の一つです。
ロビーの床が固くてカツカツ音がするときにはカゴに下駄を入れて運んでくれます。

この写真のように…って、左に写ってる寺田昌樹君はこの場面に関係ないんですが。
「『俊寛』上演になると、俳優ばかりではなく演出部が非常な盛り上がりを一人ひとりが見せてくれる」
前進座『俊寛』の成り立ちを描く『歌舞伎の演技』はそう語っています。
波の音に俊寛が目覚める前進座版の幕開けでは、大太鼓の波音に波カゴと呼ばれるものを使います。扱う演出部員に、その強さタイミングを先輩部員が伝えます。
もう一羽の千鳥たちにもご期待ください。
…さてさて、千秋楽の夜、みんな千鳥足になる前に宿に帰って来たかなあ。
楽の日付が変わるころ 松涛喜八郎これを記す
『俊寛』『一夕噺』だよ
2004年の南座以来の『俊寛』です

私自身、このお役は初役以来20年目の千鳥です。
今の私が曲がりなりにも女形として役者を続けていられるのは、この役を父・芳三郎から細かく教わり、女形としてやっていく自信が持てたからです。
来年は父の十三回忌で、私も六代目國太郎となってちょうど10年になります。
祖父・父の遺志を心に精一杯20年目の千鳥を勤めたく思っております。
どうぞ、私共の前進座劇場へお越しくださいませ。
河原崎國太郎

私自身、このお役は初役以来20年目の千鳥です。
今の私が曲がりなりにも女形として役者を続けていられるのは、この役を父・芳三郎から細かく教わり、女形としてやっていく自信が持てたからです。
来年は父の十三回忌で、私も六代目國太郎となってちょうど10年になります。
祖父・父の遺志を心に精一杯20年目の千鳥を勤めたく思っております。
どうぞ、私共の前進座劇場へお越しくださいませ。
河原崎國太郎
- カテゴリ : 俊寛/人情一夕噺
- 2007-10-02
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『俊寛』『一夕噺』だよ
俊寛成人式
『お登勢』は、2004年の秋に東京で初演、名古屋などを数箇所で上演しました。翌年大阪文楽劇場ほか神戸などで上演。
これで終りかと思っていたら、今年3、4月に作品の舞台徳島はじめ四国の演劇鑑賞会さんに、この9、10月には静岡県下の市民劇場さんにお迎え頂きました。
下田での千秋楽が、初演から丁度100ステージになります。
芝居は、結句、稽古の数と上演の数。
100回やって初めて役が自分のものになるという人もいます。
前進座主催の大都市公演だけでは、とてもこのステージ数は出来ません。
中村翫右衛門以後、瀬川菊之丞(六代)、杣英二郎、市川岩五郎、と引き継がれた前進座『俊寛』に中村梅之助が挑んだのが、
この静岡の市民劇場さんでの巡演。
それが1987年の夏。
中部北陸、長野、東北の演劇鑑賞会さんを経て、国立大劇場での通し上演、京都南座、そして500席の前進座劇場へ。
市民劇場さんに産湯を使わせていただいた梅之助俊寛が、
吉祥寺で二〇歳を迎えます。
松涛喜八郎★記
『お登勢』は、2004年の秋に東京で初演、名古屋などを数箇所で上演しました。翌年大阪文楽劇場ほか神戸などで上演。
これで終りかと思っていたら、今年3、4月に作品の舞台徳島はじめ四国の演劇鑑賞会さんに、この9、10月には静岡県下の市民劇場さんにお迎え頂きました。
下田での千秋楽が、初演から丁度100ステージになります。
芝居は、結句、稽古の数と上演の数。
100回やって初めて役が自分のものになるという人もいます。
前進座主催の大都市公演だけでは、とてもこのステージ数は出来ません。

中村翫右衛門以後、瀬川菊之丞(六代)、杣英二郎、市川岩五郎、と引き継がれた前進座『俊寛』に中村梅之助が挑んだのが、
この静岡の市民劇場さんでの巡演。
それが1987年の夏。
中部北陸、長野、東北の演劇鑑賞会さんを経て、国立大劇場での通し上演、京都南座、そして500席の前進座劇場へ。
市民劇場さんに産湯を使わせていただいた梅之助俊寛が、
吉祥寺で二〇歳を迎えます。
松涛喜八郎★記




