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『裏長屋騒動記』第二の故郷 富山
私の生まれた故郷は、青森県の下北半島。18歳までその地で育ち、19歳のとき、前進座の養成所の門を叩きました。
富山へは、1975年に富山演劇鑑賞会の例会『さぶ』の公演で初めて訪れました。それ以来いくたび来たことでしょう。富山の地は、本当に前進座ファンが大勢いらっしゃる。そのためか私の知る限り、他の地方都市よりも実行委員会方式の公演が多くありました。鑑賞会の特別例会も加えてです。
私が今の妻と出会ったのは、三浦綾子原作『母』の公演の時でした。この芝居は、全国各地で実行委員会が組まれた公演でした。
しかしこの富山では、通常では考えられないことが起こりました。地方都市で実行委員会方式の公演が行われるときは、ある団体が主たる構成力を持ち、ほかの団体がそれに協力するという形がふつうです。ところが、ここ富山では、二つの団体組織がそれぞれ実行委員会を立ち上げたのでした。一つは、演劇鑑賞会中心の実行委員会。そしてもう一つは、富山県委員会を中心とした実行委員会でした。
妻はその当時、富山市の市議になりたてで、県委員会中心の実行委員会の事務局長を務めていたのでした。最初に会ったときは驚きました。「この人、本当に市会議員?」なんともチャラチャラした女の子(笑)という感じだったのです。富山『母』公演は、二つの実行委員会とも大成功でした。
その後、妻とは、私が富山に公演で来るときちょこちょこ会ったりはしたのですが(妻は演劇鑑賞会の会員)、ファンと俳優という感じの付き合いでした。それが、今から12年前、大阪文楽劇場にて私が『さぶ』の公演中、あばら骨を7本折るという事故に遭いました。このとき私は以前の妻と別れ、独り身でしたが、今の妻がとても心配してくれ、それが縁で3年後に結婚しました。
今の妻は一人っ子だったので、私が妻の籍に入りました。ですから、益城 宏という名前は、昔本名、いま芸名です。本籍も富山に移しました。妻はもう24年、議員を続けています。妻と結婚して来富の機会が増えました。そのおかげで党派を超えた議員の方々とも知り合い、この『裏長屋騒動記』を観てくださいました。感想を聞くのが楽しみです!
益城 宏 記
富山へは、1975年に富山演劇鑑賞会の例会『さぶ』の公演で初めて訪れました。それ以来いくたび来たことでしょう。富山の地は、本当に前進座ファンが大勢いらっしゃる。そのためか私の知る限り、他の地方都市よりも実行委員会方式の公演が多くありました。鑑賞会の特別例会も加えてです。
私が今の妻と出会ったのは、三浦綾子原作『母』の公演の時でした。この芝居は、全国各地で実行委員会が組まれた公演でした。
しかしこの富山では、通常では考えられないことが起こりました。地方都市で実行委員会方式の公演が行われるときは、ある団体が主たる構成力を持ち、ほかの団体がそれに協力するという形がふつうです。ところが、ここ富山では、二つの団体組織がそれぞれ実行委員会を立ち上げたのでした。一つは、演劇鑑賞会中心の実行委員会。そしてもう一つは、富山県委員会を中心とした実行委員会でした。
妻はその当時、富山市の市議になりたてで、県委員会中心の実行委員会の事務局長を務めていたのでした。最初に会ったときは驚きました。「この人、本当に市会議員?」なんともチャラチャラした女の子(笑)という感じだったのです。富山『母』公演は、二つの実行委員会とも大成功でした。
その後、妻とは、私が富山に公演で来るときちょこちょこ会ったりはしたのですが(妻は演劇鑑賞会の会員)、ファンと俳優という感じの付き合いでした。それが、今から12年前、大阪文楽劇場にて私が『さぶ』の公演中、あばら骨を7本折るという事故に遭いました。このとき私は以前の妻と別れ、独り身でしたが、今の妻がとても心配してくれ、それが縁で3年後に結婚しました。
今の妻は一人っ子だったので、私が妻の籍に入りました。ですから、益城 宏という名前は、昔本名、いま芸名です。本籍も富山に移しました。妻はもう24年、議員を続けています。妻と結婚して来富の機会が増えました。そのおかげで党派を超えた議員の方々とも知り合い、この『裏長屋騒動記』を観てくださいました。感想を聞くのが楽しみです!
益城 宏 記
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- カテゴリ : 『裏長屋騒動記』
- 2019-07-25
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