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五月国立大劇場だより

                1010                 
                      四宿の“へ~!?”


 四宿のもう一つは内藤新宿、今の新宿区。
新宿三丁目から新宿御苑に掛けてのあたり。
甲州街道38次は、終点下諏訪宿で中山道に合流する。
諏訪湖

 万一江戸城陥落の際には、
この道を甲州に逃れることを家康は想定していたという。
この時点では第一宿は高井戸だったが、遠すぎて不便な為、
開府100年経ったころに開設された四宿中最も“新しい宿”場。
 内藤様の屋敷の敷地を利用したから内藤新宿。

 板橋は、宿の中を流れる石神井川に架かる橋の名から。
品川には、その名の流れが通っていた。
異説はあるものの、四宿の名前にはそれなりの謂れがある。
            千住スサノオ神社境内の“千住大橋”

 さて千住は、荒川から千手観音を拾ったからとか、
千寿さんが生まれたところだから、
千葉さんが住んでたから
と説は様々で決定打がない。



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五月国立大劇場公演だより

          大学校事始

 西の緒方洪庵、東の佐藤泰然。

 東西並び立つ蘭学塾が開かれたのは、奇しくも同年。
江戸が東京と変わる30年前だった。

 洪庵の塾は、大阪大学医学部のルーツとなり、
泰然の塾は順天堂大学の基となった。
          懐徳堂も

 神田お玉が池に種痘所が開かれたのは、
維新の丁度十年前。
 火災で移転後、医学所と名を替え、
緒方洪庵らが頭取を勤めた。
洪庵の後、頭取となったのは泰然の息、松本良順。

 この職で無血開城を迎えた良順は、医学所の引渡しも差配する。
同門の関寛斎は、上野戦争の後、
奥州に移った戦場で新政府の野戦病院を担当するが、
良順も同じ奥州で旧幕府方の負傷者治療に当った。
             上野公園

 引き渡された医学所は、広域移転、充実される。
彰義隊・上野戦争で焼け野原となった寛永寺跡が候補に上がるが、
蘭医ボードウィンは強硬に反対し、
中止を勧告するよう本国にも申し入れた。
都市に必須の緑地を破壊することへの異議だった。
        大阪:蘭医ボードウィン滞在地

 移転先は、加賀藩邸跡に変更、東京大学医学部に発展。
上野の山は、公園として現在に残されたのだった。

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五月国立大劇場公演だより

          道中双六
                   四宿の“へ~!?”


 「東海道を下るうち、吉之助の心根に徹して、
感情に撃たれたことが三度ごわす」
 (『江戸城総攻』第三部
       『将軍江戸を去る』)


朝焼けの富士

 地図の上で江戸焼討ちを目論んだ西郷が
実際に江戸の街を見渡したのが品川・御殿山、
と『江戸城総攻』は描く。

 上野寛永寺や飛鳥山と並ぶ桜の名所だった。
西郷が江戸入りした三月上旬は
新暦の四月初め

                 花

 外国船打ち払いの台場建設の為削られた御殿山は
シシュクの一つ品川宿に囲まれるようにあった。
 東海道の出入り口である。 
 現在のJR品川駅の少し南。
因みに品川駅舎があるのは、
品川区ではなく港区。
 江戸時代にはまだ海の中だったところ。

 「今立てば、神奈川辺りで昼飯か」
 「先生、道は東海道ではなく中山道です。
 あれほど桂(小五郎=木戸孝允)さんに言われたでしょう。」
 「そうでした、東海道を行くと先触れして実は裏を行く。
 そこまで手を細こうせんでもええと思うが。
 心配性なんですなぁ、桂さんは。だから病気が治らん。」
        (NHK大河ドラマ『花神』)


 “一日中ヤマミチ”と読み間違えられることもある
“旧中山道”の出入り口板橋宿の場合、
JR板橋は西口を出ると板橋区だが、
東口は北区、ホームの殆どは豊島区にある。

 内陸を進むナカセンドウはその旅路の終わりに
海沿いの東海道と合流して
京都三条大橋で上がる。
中山道69次だから、東海道より宿場の数は16多い。



 「長々と馬鹿話で、東海道を、
京都から遥遥と品川まで着きました」
 (『江戸城総攻』第三部
        『将軍江戸を去る』)



 ケイキさんが旅立つ千住の場合、
橋の両側に宿場があったので、
現在の区分では荒川区と
川向こうの足立区とに跨っている。

 五街道の奥州街道27次と日光街道21次とは、
宇都宮までの17宿を共有している。
 ケイキが行く水戸街道は
千住宿を共有するばかりである。



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五月国立大劇場公演だより

           寛斎記す



 松本良順は、佐倉・順天堂を
開いた佐藤泰然の次男。
佐藤泰然は、元々高野長英の弟子。
 佐倉順天堂で学び、松本良順と共に長崎で学んだ
関寛斎は、阿波徳島藩に仕えた。
『お登勢』に描かれた頃の話である。

           淡路洲本のお登勢の碑

 順天堂と並び称される
適塾出身の長州・大村益次郎に乞われた寛斎は
彰義隊・上野戦争の野戦病院を担当した。

 野戦病院で寛斎がつけた治療記録に、益満休之助の名がある。


「去年の暮、市中に火付け強盗を働いて動乱を企てた張本人でございましょう」
「そうだ、西郷吉之助の懐小刀と言われた男だ」
  (『江戸城総攻』
         第一部『江戸城総攻』)
  



 マスミツは、歴史の教科書には出てこない。
薩摩が幕府攻撃の口実を作るための挑発活動後、江戸で逮捕。
処刑されるところを勝海舟に引き取られ、
無血開城交渉の為のホット・ラインの役割を果たした。

「こいつ、帰って来た。
精鋭隊の山岡鉄太郎をつれて、
慶喜の命乞いに来たと言っとる」
(『江戸城総攻』第二部
      『慶喜命乞』)


 無血開城後の、
上野戦争で薩摩は、激戦区
黒門口を攻めた。

 寛斎が記したマスミツのカルテは

     右膝下部貫通銃創 脛骨挫傷

五日後横浜の軍陣病院に送られたが

     テタヌスにて二十六日死ス


 テタヌスつまり破傷風。
        コッホ北里神社は、白金の北里研究所大学構内にある


オランダ医学からドイツ医学に転じた明治日本で、
北里柴三郎博士が原因菌を発見する
20年前。
原因も治療法も未だ解明されていなかった。


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五月国立大劇場公演だより

              大橋
                        四宿の“へ~?!”壱




 「それが江戸の地の最果てでござりまする……。」
     (『江戸城総攻』第三部
             『将軍江戸を去る』)

      公共工事の塀に描かれた江戸の千住大橋

 『江戸城総攻』一部を発表した時の三部作構想では、
青果先生、三月十四日の
西郷・勝会談までしか語っていないが、
無血開城が実施されるのは、
会談から一月近く後の四月十一日。
             〝壁面の浮世絵"
 この早朝、江戸の果て・千住大橋,で
江戸の人々に送られる
最後の将軍の姿が
三部作を〆ることになった。

         
日本橋は現在も道路原票があるところ

 江戸の幹線道路“五街道ゴカイドウ”の基点は日本橋だが、
旅立ちの見送りや出迎えは、
江戸の出入り口である“四宿シシュク”。
 
 品川、板橋、内藤新宿そして千住センジュがそれ。
                   P1030981.jpg

街道の数より少ないのは、
千住が奥州街道・日光街道ふたつの出入り口を兼ねているから。

                      現在の水戸街道

 ケイキさんの四泊五日水戸への旅路は、
准幹線道路・水戸街道だが、この出発点も千住。

 現在、荒川区と足立区とを結ぶ千住大橋は、
1594(文禄3)年に架けられた。
 
 現在の隅田川は、
鉄道・高速道路・ガス・水道の橋と40近い橋が架かる
活きた架橋博物館。
橋、橋々

 その第一号が千住。
第二号の両国橋が架けられるまでの60年余りは、
只“大橋”で通っていた。
           伊奈半左衛門も新田次郎先生も、白い花が好きだった

 家康に命じられてこの大橋を架けたのは、
『怒る富士』の伊奈半左衛門忠順の
高祖父―ひいひいお爺さん―
伊奈備前守忠次だった。


               喜八郎☆記

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五月国立大劇場公演だより

           将軍と蘭方医と

「上様はご病気であろう。
奥医師は何をしておる。いや、
蘭癖の上様に漢方は合うまい、
                松本良順をお呼びなさい。」
(『江戸城総攻』第三部『将軍江戸を去る』)


 江戸退去を逡巡するケイキ公への
諫言に訪れた鉄舟=山岡鉄太郎の言葉は
聞こえよがしの皮肉を含んでいるが、
ケイキ=慶喜の西洋好きは事実。
 豚肉をよく食し、“豚一殿”と仇名されたのも有名。

 
 奥御医師を拝命した蘭医・
松本良順は、将軍補佐役として京にあった頃の
ケイキ公を既に治療している。
 
 ケイキの宿所は、渉成園。
カラタチの生垣に囲まれた所から枳殻邸とも呼ばれた。

 真宗本廟―真宗大谷派・通称東本願寺-から東1丁の
飛び地にある名園。
 ケイキは此処をいたく気に入り、
“渉成園”の額は、ケイキの筆になる。



「江戸の地よ、江戸の人よ、さらば」
 (『江戸城総攻』第三部 『将軍江戸を去る』)


 自分を斬りに来た近藤勇と義兄弟の契りを結んだ
良順は、江戸無血開城の後、北に走って会津戦争の軍医となるのだが、
無血開城のその日、
江戸の北の果て、千住大橋に
最後の将軍を見送っている。



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五月国立大劇場公演だより

     まぼろしの『佐吉』

 『元禄忠臣蔵』系統的上演の最終篇
『大石最後の一日』の上演は 
第一弾上演からほぼ三年。
1943年の末だった。
 その打ち上げの日、吉祥寺前進座の大食堂で
通し上演完成祝いの宴が開かれた。
その乾杯のビールの味は如何ばかりかと
“涙がこぼれる”と、
演出の巌谷槙一氏は30年の後も
面々の辛苦を回想する。
 

 翌年、真山青果『荒川の佐吉』の稽古が
始まった。
 更に厳しい戦時色の中、侠客の題名では駄目で
『天保江戸桜』と改題して許可が下りた。
 合方を入れた面白い味付けで
演出としても“いささか悦に入っていた”が、
東劇での舞台稽古の日に発令されたのが
決戦非常措置要項。

 東劇も筋向いの歌舞伎座も
初日目前に閉鎖されたのだった。


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五月国立大劇場公演だより

 勝ち勝ち山

 「まずいッ!」


高座の圓喬はドキリとした。
師匠圓朝の名作『牡丹燈籠』、忠僕・孝助が
槍をしごいてグッと突いた所だった。

 声は一番前に座った老人だった。
槍の名手で知られたその老人を訪ねて、
教えを請うた圓喬は、
翌月、無事に真打披露を祝った。

              
               狸団子

 維新の年、無血開城の使者に
鉄舟=山岡鉄太郎を推薦した
泥舟=高橋精一郎がその老人。

槍の家・山岡家に生まれ、高橋家に養子に入った。
妹を娶って山岡家を継いだ鉄舟の義兄に当たる。

海舟=勝麟太郎や鉄舟らは、
維新後、新政府で要職を勤めたが、
高橋は

狸にはあらぬわが身も つちの舟
 こぎいださぬが かちかちの山

と詠んで、慶喜に殉じて在野に暮らしたのだった。 



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五月国立大劇場公演だより

       仕合せな役者


 系統的上演も大詰に近い『泉岳寺の一日』では
第一弾上演時と同じ
一言の台詞に2~3時間の稽古が復活した。

 四十七士など群集が登場する場面を纏めるのは大変。
 前進座の『元禄忠臣蔵』は
劇団の強みと徹底した稽古とで
成果を挙げ、
『元禄忠臣蔵』の世界が一人一人の身体に染込んでいた。

 が、これまでの上演を担った若手中堅の俳優の多くが
『泉岳寺ー』の前に出征してしまっていたのだった。

                   花道

 前進座創立の年に起きた満州事変は、この国を15年間の戦争に導き、
系統的上演の始まった二年前に対米戦争に発展していた。
 

 第一弾の汐田又之丞で熱演につぐ熱演を見せた
市川莚司=加東大介も、道頓堀の小屋の花道七三にトーンと突いた
『新門辰五郎』の纏マトイを名残りに赤紙に引っ張られていた。
                 
 南方ニューギニア戦線で、
消沈する兵士のケアの為に劇団組織を命じられた彼は
戦地でも『瞼の母』などの舞台に立った。
死と背中合わせの役者と観客は、束の間の舞台に燃焼した。

 復員して、無断上演を詫びに訪れた加東大介に
“無断上演などどうでもいい。
そういう観客と舞台をつくった君は幸せな役者だ”と
作者・長谷川伸は答えた。

 幸せな役者だった自分は
これからも役者であることを大切に生きなければ
戦地の仲間に申し訳が立たない、
そんな感懐で
『南の島に雪が降る』(加東大介)は、結ばれている。


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五月国立大劇場公演だより

          おもて看板

 公演の合間に抜き稽古、
中座の公演を打ち出した夜九時から
二階の大部屋楽屋で全体稽古という日々だった。
 
 演出の巌谷槙一氏も
深夜ヘトヘトになって近くの福田屋旅館へ。
コロ(鯨の脂身)の味を覚えたのは
帰途に一息ついた道頓堀の屋台でだった。
中座の櫓

 第二弾、第三弾と回を重ねると
端々の役までが青果の台詞術を掴み、
『元禄忠臣蔵』の世界に溶け込んでいった。


 『御浜御殿綱豊卿』は
初演でも苦労した一篇。
 奥女中が男装をして戯れるのだから、
女形では駄目。女優を男装させて出せというのが作者の指定。

 その他衣裳のことなどでいろいろと
大汗をかいた作品だが、
何よりの難関は
二世左團次も苦しんだ台詞の長さ。

 初演では半分に縮めたこの一篇を
ノー・カット上演という大冒険。
 翫右衛門・長十郎の丁々発止のやり取りは勿論、 
国太郎が発案した
新橋綺麗どころの弾き唄い出演作戦などが
効を奏し、ダレることなく好評を博した。

 『元禄忠臣蔵』は、前進座の表看板になっていた。



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五月国立大劇場公演だより

             こころで語る
                  山門

 今はなき日比谷・芸術座で
今は亡き志ん朝師匠を聞いたのは、『宗眠の瀧』。
 彫ったものが生きて動き出してしまうような名人のお話。

             
 その枕に名人とは何かという話をして
父・志ん生にとっての名人・圓喬
―『金木犀の花』で亀井栄克が演じた―節分の恵方巻
から
その師匠・圓朝に及んだ。


 全生庵の圓朝の墓石に刻まれた文字は
“三遊亭圓朝 無舌居士”。
鉄太郎・山岡鉄舟の達筆。

 舌でなく心で語るとの境地に圓朝が達したのは
鉄舟の助言によるといわれている。

 閻王に舌を抜かれて これからは心のままに嘘も言わるる
          IMG_0005.jpg
 志ん朝師匠は
“私もいずれ何も喋らずに座っているだけで
お足を頂きたい、
『無舌居士』。“
と笑わせていたのだった。


 弓の名人は弓を離れ
噺の名手は舌を忘れる。
剣客・山岡鉄舟も無刀流ををひらいた。
われわれ凡人の理解を遥かに超えている。
              鉄舟寺


 慶喜の生国水戸のある茨城県初代県知事も勤めた
鉄舟は、
徳川発祥の静岡とも縁が深い。
 清水にある鉄舟寺は
廃墟同然だった寺を彼が中心となって
再建したもの。
                
 清水の次郎長も大いに尽力したと伝えられる。


         
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五月国立大劇場公演だより

       仰天の稽古
             

道頓堀・中座


 『元禄忠臣蔵』の役々の性根や気持の検討から
系統的上演第一弾の稽古は始まった。
甲論乙駁とどまらぬ内、昼休憩。

読み合わせも
「はっ、立ちのまま申し上げます」という
若手の一言に二時間三時間が費やされ、
本人は勿論、
演出の巌谷慎一氏も
この稽古に“仰天”、
“ヘタヘタになった”という。

 監修は、河竹黙阿弥の家を継いだ
早稲田大学の河竹繁俊博士。
駄目出しのため、総浚いを観たが、
“「イヤ結構結構」と微笑を浮かべていられるだけだ”った。

 大好評の裡に新橋演舞場を打ち上げ
大阪中座で再演。
 が、その上演の合間を縫って
第二弾の稽古に掛かった面々に
休息の日はなかった。


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五月国立大劇場公演だより

     『右の足』
                      これは川向こう

 
 『法然と親鸞』上演中の日本橋・大阪文楽劇場から
北へ歩いて30分。
北浜は、江戸以来の相場・両替商以来の証券・金融街。
クラシックなビルもチラホラ。

                  適塾

 適塾テキジュクがここに残っている。
大河ドラマ『花神』
―くどくも申す如く、中村梅之助が
村田蔵六=大村益次郎を主演した。
彰義隊戦争を半日で終わらせた男である―
や、手塚治虫の『陽だまりの樹』で
ご存知の向きも多かろう。

                 緒方洪庵と適塾の物干しー『陽だまりの樹』では、ここで大鳥らが酒盛りをしていた

 緒方洪庵が開いた蘭学塾は、維新までちょうど30年間、
幕末明治を動かした人々を世に送った。


 北海道・五稜郭戦争で官軍・幕軍を問わずに治療をし、
わが国、赤十字精神の魁となった高松凌雲。
 それを受け継いだ日本赤十字社初代総裁、佐野常民。
                  適塾とともに大阪大学のルーツといわれる懐徳堂もこの近く。

五稜郭に籠もった大鳥圭介は、漫才師ならぬ明治の外交で活躍。
慶応義塾を開いて、貴方の財布にもいる福澤諭吉や
手塚治虫の曽祖父・手塚良仙=良庵は
大村益次郎の後輩に当たる。

                      洪庵夫妻の墓

 堂島川を隔てた大阪天満宮近くの寺には
緒方洪庵夫妻が眠る。
 側らに控えるのは、大村益次郎の足塚。
鉄舟と圓朝の墓のように
「オイッと呼べばハイッと応えられる位置」にある。
                益次郎の足

 暗殺の刃に命を落とした大村が、
治療の過程で切断した右足をここに葬るよう
遺言したのだった。


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五月国立大劇場公演だより

          完全上演 

 療養中だった真山青果は、当時
長十郎・翫右衛門や国太郎が何度も見舞いに来ては
何か言い出せずにいる素振りで帰って行ったと
回想している。

前進座による『元禄忠臣蔵』系統的上演は、
三年前からの悲願だった。
 左團次没後にも新たに一篇が発表され、
更なる執筆予定もあったが結局この時
前進座が上演した十篇が決定稿となった。          
   
 『元禄忠臣蔵』をはじめ真山青果の作品は、饒舌で有名。
作者本人も自分は調べたことをいろいろ盛り込んで
読み物として発表しているのだから、
舞台上演の際には適宜カットしてもらって構わない
と公言していた。

 最高傑作といわれる『御浜御殿綱豊卿』も
左團次上演では、一幕も新井白石登場の場も
原作の半分にカットしている。

 その『元禄忠臣蔵』を
前進座は、一字一句抜かずに完全上演すると
打ち出したのだった。

 左團次上演から引き続き演出に当たる巌谷慎一
―明治の児童文学者・巌谷小波の長男―が
前進座小稽古場に入ると、
机の上に原本を載せた面々が
“もう燦燦たる朝日の流れを浴びて”
ずらり勢ぞろいしていた。

 三年越しの“系統的上演”の始まりだった。


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五月国立大劇場公演だより

      ぽん太のお手柄
            本文とは関係ありません ぽん太の墓


 将軍が江戸を去って一と月、
三遊亭圓朝は日本橋の寄席・伊勢本のトリを勤めていた。

 その晩も、浅草の自宅から出勤しようとしたが
木戸が閉まっている。
 むなしく家に帰ったが、今度は寄席に詰めていた弟子たちが
日が改まっても帰ってこない。
 砲声が轟き、上野の山で戦争が始まったとの噂に
気を揉む圓朝の元に一人の弟子が
皆の無事を告げた。
             圓朝の墓所
 
 三遊亭ぽん太だった。

 圓朝かかりつけの床屋から弟子入りしたぽん太は、
チョット愚かともいわれたが愛嬌者。
途中官軍の陣営に捕まったが、
圓朝の弟子と知っていたものが居て
解放され、大任を果たした。


 翌朝動乱を見物に出掛けた大圓朝が眠るのは、
谷中の全生庵。
 彰義隊の上野戦争をはじめとする
維新の犠牲者たちを弔う為に
山岡鉄舟が建てた寺で、鉄舟の墓に従うように墓石が建つ。
圓朝と鉄舟の交友は前進座上演『金木犀の花』でもおなじみの通り。
               山岡鉄舟終の棲家

その圓朝にまた寄り添うように
ぽん太の小さな墓石がある。


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                 青大将


「正直に云えば、官軍は弱すぎました。
蛇を恐れる臆病者に限って、
毒をなさぬ青大将でも、見かければ殺さずには
安心がなりもはん」

 

 二世・左團次追悼前進座公演『将軍江戸を去る』は、
書き物の『幡随院長兵衛』と時局ものの『大地に祈る』と共に上演された。
 勝・西郷の会談部分を削って後半のみの上演。
これが先鞭となって『将軍江戸を去る』というと
前半が上演されることは殆どない。
                イワシ売りの喧嘩も登場する

 三本建ての所要時間の問題だったのか、
二役を演じた勝海舟より慶喜役が二世左團次の当たり役と目された為か。

 歌舞伎に精通する渥美清太郎先生などは、
この時、
前半はあまり見るところがないような発言をされているので、
その為の判断だったのかもしれない。

 が、今読むと、前半の勝・西郷会談は、
かなり魅力的。真山青果の筆は
現代の戦争をも髣髴とさせる

 明日の戦火も知らぬ庶民が
今日の食卓にのぼる鰯の値段で鰯売りと掛け合っている。
「戦争とは実に残酷なもの」

 そのリアリティが太平洋戦争前夜に立っている人々に
二の足を踏ませたのかもしれない。

 作者の意図は知らず、
膨大な資料の紙背に徹する目と、
歴史、人間を見つめる眼力とが
戦争の本質を描かせたのか。

 思想に濁った眼には見えぬ洞察力が
この芝居には活きている。

 なお、この時の文章の中でも渥美先生、
次の機会は三部作一挙上演をと前進座に望んでいる。


 左團次の没した翌年、前進座が念願していた
『元禄忠臣蔵』初の系統的上演がいよいよ始まった。


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五月国立大劇場公演だより

     日本で一番 低い山    
             焼けた石垣:将軍が立ち退いた後、兵たちは大阪城に火をかけた

                    
 “官軍”との血戦に沸く大阪城を密かに抜け出した
最後の将軍・慶喜は、梅の大阪城

三十石船のステーションで有名な八軒家(ハチケンヤ)から小舟に乗り、
天保山に着いた。
                     『蛍』に出てきた竜馬ゆかりの寺田屋の三十石船が着くのがここ

 その名の如く、天保年間に川を浚った土を盛り上げて出来た山。
旭山動物園にヒントを与えた水族館・海遊館もこのエリアにある。
                     エイやジンベイザメ
 
 今、国土地理院の地図に載る山の中で一番低い。

 因みに薩摩にも同じような経緯で出来た天保山があって、
幕末に外国船打ち払いの砲台が築かれた点でも共通する。
  大阪天保山に据えられていた砲台・維新後時報に使われた

 アメリカ軍艦に迷い込んだ後、幕府の軍艦で帰京した将軍は、
たどり着いた御浜御殿に
勝海舟を呼んだ。
                   御浜御殿

 海舟は将軍の前も構わず、「だから言わないことではない」と、
一行を罵ったが、この日から
幕府の運命は彼の双肩に懸からざるを得なかった。

 慶喜を寛永寺に謹慎させた後、海舟の活躍が始まる。



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五月国立大劇場公演だより

 『元禄忠臣蔵』殺人事件
                         大坂城の梅園

 新派、新国劇、歌舞伎と幅広く上演された真山作品だが、
大統領・二世左團次が初めて上演したのが
『江戸城総攻』第一部。

 第一部が発表された時点で、
勝・西郷会談までの三部作構想が語られていたが、
ほぼ十年をかけて昭和9(1934)年
『将軍江戸を去る』で完結。
大当たりをとった。

 同じ年、青果は『大石最後の一日』を発表、
このあと書き継がれる『元禄忠臣蔵』連作も、
次々と二世左團次が上演した。
              梅園のお客

 そのラストとなった『御浜御殿綱豊卿』の脚本を受け取った
左團次は、
「憶えるだけで死んでしまいそうだ」と珍しく弱音を吐いた。
 肝臓癌に蝕まれた身体が限界を迎えていたが、
舞台は好評を博した。

 翌月不帰の人となった葬儀の日、
やはり真山作品を幾つも上演した
新派の井上正夫が弔問後、
松山訛りでつぶやくように言った

「左團次さんを殺したのは、真山さんの脚本ですわ。
よう、あれだけ憶えられたものと思うとりましたが…」
         





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五月国立大劇場公演だより

                同い年             

       1931(昭和六)年生まれの天守閣は、大阪市民の心意気で生まれた。

 最後の将軍、慶喜が大阪城から江戸に帰ってきた時、突然呼び出されたのが勝海舟。
幕府の幕引き役を背負わされた。

 かねて面識の西郷隆盛と交渉する中で、
裏切り者として幕臣から命を狙われた海舟は、
300年前の大阪の陣の頃の片桐勝元に身をなぞらえる。 
                   金の鯱も豊臣時代を再現

坪内逍遥『桐一葉』の主人公、片桐勝元は事を平和裏の納めようと
豊臣・徳川の仲介をして、味方の豊臣方から疑われて、大坂城落城と共に命終わる。
                       
 この後、徳川によって再建された二代目大坂城天守閣は、間もなく落雷で消失。
昭和になって大阪市民の募金で再建された。
前進座創立の年の秋だった。
                 大坂城は、石山本願寺の跡に建てられた

『桐一葉』は、最初の“新歌舞伎”といわれる。
江戸の歌舞伎では、座付作者だけが筆を執った。
 維新から40年近くたって『桐一葉』が上演され、
カブキは新しい時代を迎えた。
 真山青果は、この“新歌舞伎”の系譜に連なる。

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五月国立大劇場公演だより

    和平の階段

 「先生、実に戦争ほど残酷なものはごわせんなァ」
(江戸城総攻3・将軍江戸を去る)


 江戸城総攻撃を翌日に控えての
勝海舟・西郷隆盛の両巨頭会談が暗礁に乗り上げようとした時、
二人は愛宕山に登った。 

 山頂に鎮座する愛宕神社は江戸幕府と同い年。
江戸の町を火災から守るために勧請された。
           愛宕山の男坂。講談の出世の階段として有名。

江戸市街の景観の素晴らしさで名高い山だった。
山上での感懐が、会談を無血開城に導いたと伝えられる。
 
 57年後、この山上に建設された放送局から
我が国初のラジオ放送が始まった。
 放送第一日のプログラムに、
坪内逍遥『桐一葉』があった。

 愛宕山の放送博物館の展示には、
淀君を演じた五代目中村歌右衛門と共に
中村翫右衛門ら出演者の名が刻まれている。


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